岡山・香川の地方テレビ局・瀬戸内海放送で18年間、報道部署のアナウンサー・記者・ディレクターとして働き、2020年に独立した、田嶌万友香です。名古屋市出身で就職のために岡山・香川にIターンしました。
私のキャリアの原点は大学受験の失敗にあると思っているので、大学受験まで遡って振り返りました。ご自身の役に立てられるエピソードや体験談を拾い取っていただけたら嬉しいです。
▼人生最大の「挫折」を味わった大学受験
私は高校生になるくらいから、漠然と「産婦人科のお医者さんになりたいな」と思っていました。自分と同じ女性の体に携わる仕事だし、何より命が誕生する場所に自分も身を置いてみたい。日本で初めて女性医師となった荻野吟子を描いた小説「花埋み」を読んだのもきっかけでした。
医学部を目指し人並みに勉強に勤しんで迎えた大学受験。手応えを感じ(これは受かったのでは)という幸せな気持ちもつかの間、合格発表で自分の番号を見つけることはできませんでした。国立大学志望だったので、後期日程で医学部を受験するのはハードルが高く、目標を下方修正して地元国立大学の「経済学部」に入学することになったのです。
この挫折感はトラウマになっていて、就職後に「国立大学 後期日程の合格発表」の取材だけは担当するのがいつまで経っても嫌だったものです。
▼目標のない大学生生活
医師になるには医学部に入るしか道はないのに、自分が入った場所は経済学部。入学式ですら絶望感でいっぱいでしたね。今のように中学生や高校生の時に「キャリア教育」などなかったので、医師になりたかったのも漠然とした思いつきでしたし、なんの目標もなく経済学部に入ってしまったのです。塾講師や家庭教師のアルバイトに明け暮れる日々。
そんな大学1年生の冬のとある日。通学で使う地下鉄で1枚の中吊り広告に目が留まりました。広告代理店と名古屋の民放局が共同で行っていた「テレビタレントセンター」の入学生募集案内です。1年間平日は毎日2時間レッスンがありますが、運営母体が営利目的でないため月謝は破格。さらに卒業生にはアナウンサーやナレーターになった人が多数いるらしい!
この広告を目にした瞬間に私は思い出したんです。小学校の頃、ニュースキャスターになりたいと思った時期があったこと。中学受験塾の理科の先生が「田嶌さんは読むのがうまいから」と言ってくれて、問題文の読み上げをいつもさせてくれたこと。そうだ!私、声に出して伝えることに興味があったんだ!
▼スクールでの特訓を経て、大学生リポーターに
1年間、週5日、教室が入っているビルの屋上で発声練習をし、日本語の基礎や表現技術(中には狂言の授業もあり和泉元彌さんに教えてもらっていました!)を学びました。そして大学3年生から司会やテレビの中継リポーター、CMナレーションなどの仕事をもらえるようになりました。
毎日が刺激的で本当に楽しかったですね。特にテレビには映像があって音がある。自分がしゃべる内容はもちろん、逆にしゃべらない「間」でも、表情や身振り、たたずまいでも、全身で伝えることができる! 失敗は数しれませんが、若かったし度胸だけでいろんな現場でチャレンジさせていただき、テレビの仕事に興味を持ちました。
▼ついに来た「就活」 またまた漠然と迎えてしまう
日々をただ楽しく過ごしていた大学3年生の年明けぐらいでしょうか。ついに「就活」に直面します。
急に自己分析と言われても…。どんな業界に進んだらいいんだろう…。アナウンサーは夢として描いていましたが倍率が高く、さらに就職超氷河期だったため、母に「バクじゃないんだから霞ばかり食べては生きていけない」と冷たくあしらわれていました。
そして…相変わらずぼんやりとしたまま「就活」に突入してしまったんです(汗) 金融・保険から始まり、商社、インフラ、広告、メーカー、全部受けましたね。採用担当者にとっては迷惑だったでしょうが、不思議と採用試験の数を重ねていくうちに自分自身が自分のことを知っていくことができたように思います。
グループ面接は毎回ドキドキしました。隣の女子学生は「バングラディシュでボランティアをした体験」を話すし、反対側の隣の男子学生は「企業のバランスシートを分析するのが趣味で、御社の場合・・・」なんて話し始めます。焦りましたね。でも背伸びはできない。私はといえば…すべては覚えていませんが、「ナンプレ」のように論理的に詰めていって答えにたどり着く快感が好き!とか、そんな話をしていたように思います(汗) それでもなぜかするすると2次面接、3次面接と進むことが多く、最終的に自動車メーカーとインフラ企業から内定をいただきました。
何社かの面接官の方からは「取り組んだことの大小はともかく、田嶌さんはどんなことでも楽しそうに取り組んでいることが伝わってきた」と言っていただいたことは、今でも心の支えになっています。OB/OG訪問やリクルーター面接でも、私自身の長所や短所をズバッと指摘してくださる方がいたことが、就活を支えてくれました。
さて、肝心の「アナウンサー試験」ですが。東京・大阪の局はけんもほろろに不採用。本命は出身の名古屋にある放送局でしたが、芳しくなかったですね。そこで全国に目を向けるわけです。
▼「瀬戸内海放送」の所在地は? わからぬままエントリー
アナウンサーになりたいなら、全国の放送局を行脚して採用試験にチャレンジしないといけない。そう覚悟を決めた矢先に、大学の友人から「余ったから」と1枚のエントリーシートをもらいました。まさしく「瀬戸内海放送」のものでした。締め切りが近く、急いで書き上げて封筒に入れます。宛先は私書箱なので郵便番号と社名だけ。瀬戸内海っていうから広島あたりの会社かな?くらいにしか思っていなかったんです。
面接に進む段になってようやく、香川県が本社らしいと気付くことに。面接官とうどんの話で盛り上がり、私が名古屋で気に入っているカレーうどん屋さんの話をしたことを覚えています。「おいしいのでお勧めのお店ですが、そこのおばちゃんは運んできたカレーうどんをテーブルに置くときに十中八九、親指がつゆに入っちゃうんです。それがおいしさの秘訣なのかもしれませんが」なんて話で2次面接へ。グループ面接などもあって最終面接を通過したのは私1人でした。
総合職として採用内定の電話を受けたときは、本当に夢のようでした。それまでに頂いた2社の内定を辞退してアナウンサーの道を選びました。
▼アナウンサー志望の私、右も左もわからぬ「報道」へ
入社して報道の部署に配属となりました(アナウンサー志望全員がそうでした) アナウンサーという仕事のイメージはなんとなくあったものの、「ニュースとはなんぞや」とはまったくわからないし、知ろうとしたこともなかった未知の世界です。OJTですぐに取材に出る毎日となりました。最初は展示会や季節の話題、それから事故や火事、行政の会議など…必死で勉強するしかなかったですね。男子のプロゴルフトーナメントや高校野球などの仕事もあって、時にアナウンサーらしい「出番」がありましたが、基本的には「記者・ディレクター」として駆け回っていました。
4年目にお昼のニュース情報番組のMCに! この頃には取材やテレビを通して伝えることの面白さの虜になっていました。帯番組に出演しながらドキュメンタリー番組を制作したり、ディレクターとしてパリのユネスコ本部に取材に行って番組を作ったり。
ライフステージの進みに合わせて取材内容も変わっていきました。妊娠中には「産科医不足」の特集企画を取材。その中でたまたま「不育症」に悩む患者さんと出会ったんです。流産や死産を繰り返してしまう症状です。今では認知度が高まりましたが、当時は「不妊症は知ってるけど不育症ってなに?」といったのが一般的な反応。患者さんにご協力いただいて、育休を経て復職後に取材に着手しました。
初めはドキュメンタリー番組にしようと思っていました。しかしいわゆるドキュメンタリー番組ってどうしても深夜や早朝の放送になることが多いので、本当に流産や死産に苦しむ年齢層の女性には届きにくい…。少々悩んで違う手に打って出ました。系列キー局であるテレビ朝日の、かの看板番組「報道ステーション」に企画を売り込んだんです。いま思えば無謀でしたが、なんと採用していただいて、私は取材テープ数十本とともにテレビ朝日へ。編集にも立ち会い、元メインキャスターの古舘伊知郎さんとVTRへの導入なども相談させていただいて、2012年に報道ステーションの企画「お腹の中の救える命」と題して全国放送に至りました。
▼違う道のりで達成できた夢
高校生の頃、命の誕生に立ち合う仕事がしたいと思いました。医師になる夢は叶わなかったけれど、私は命の誕生までを取材することができたし、マスコミという影響力を使って、産婦人科領域で悩みを持つ方たちに微力ながら情報を届けることができました。
大学受験の大きな挫折感を、私は違う道のりで昇華することができたんだと思っています。
就活に挑むみなさん。私は就活時点では漠然とした考えしかありませんでしたが、興味があることを取材し続け、どこかで遠くにある夢は忘れなかったのかもしれません。それを私は「じぶんの北極星」と呼んでいます。北極星は遠くに遠くに輝くもの。医師になれずアナウンサーになったことは180度くらい違いがあるし、出産して休業をしたり思い通りに仕事ができない時期があったり右往左往しましたが、遠い北極星から見れば大した角度ではないものです。
就活を経てどんな入り口に立ったとしても、それは遠い人生の夢にたどり着く素敵な第一歩です。どんな道からも北極星を見上げてブレずに進んでいってください!
田嶌万友香アナウンサーはお医者さんを目指していましたが180°違う職種ではありますがアナウンサーとしてマスコミの力を使い、産婦人科領域で悩みを持つ方たちにたくさんの情報を届け、人のために働かれているということに感銘を受けました。
私は、システムエンジニアとして医療現場で困っているシステムを新しく作ったり人のために働きたいと思っております。
今回の記事を拝見させていただき本当に勉強になりました。ありがとうございました。
大学受験が思うようにいかなかった挫折感を乗り越え、アナウンサーになって違う形で夢を実現させたというのがかっこいいなと思いました。
誰しも挫折や、思い通りにならないことがあると思いますが、それらをいかにして昇華させるかを考えることも大切だとわかりました。こういった強い意志と行動力こそが、就活だけでなく人生において大切なのだと思いました。私もこの先の人生、何があるかわかりませんが「じぶんの北極星」を胸に、ブレずに進んでいこうと思います!
自身の夢を違う形でも叶えられたストーリーがとても印象的でした。全ての夢を叶えることは難しいかもしれませんが自分なりに夢を追いかけて、叶えたいと思わせてくれる素敵なコラムでした!ありがとうございました!
It’s really amazing that even though you couldn’t work as a gynecologist you were still able to do a broadcast on that topic many years later. I feel like you made really good use of the opportunities you were given and did something you were drawn to! I think that your column really showed that being motivated and taking a chance to do something you’re interested in can make you successful as long as you put in the hard work like you did. Thankyou for your column!
アナウンサーを目指す方は将来の夢としてアナウンサーをつねに掲げているものだと思っていたため、田嶌アナウンサーが最初は医学部志望であったこと、大きな挫折していたことを知り、驚きました。挫折を味わったとしても自分なりにやりたいことをを探求した先がアナウンサーに繋がったのだと思うと、やはり自分のしたいことを考えることは大切なのだと感じました。「わたしなりの北極星」いつかは見つけたいものです!!
コラムを読んで、夢の形は一つでないということ、たとえ遠回りでも違う形でも叶えられるかもしれないと希望を持てました!また面接で無理に背伸びをしなかったのが好印象となって、次の段階に進めていたのが印象的でした。私も自分らしさを大事に面接に臨みたいと思います。