私の使命は、「・・・」です。皆さん、「・・・」に何か入れることができましたか。
急に失礼しました。今は大学で教員をしている千賀と申します。
いやいや、そもそも「天職」って何なのでしょうかね。議題が大きいでしょうか。
ただ、就職活動は今の時代ずっと続けるかもしれませんし、たまにはゴールからお話するのもいいのではないでしょうか。
もし、就職活動で悩んでいる人がいれば少し一息。
明日すぐに役立たない雑学ですが、心が少し軽くなるかもしれません。気晴らしに読んでください。
私は、自動車部品メーカーの営業を経験し、その後スポーツ用品メーカーでCSR(企業の社会的責任を推進する部署:Corporate Social Responsibility)、広報宣伝、事業企画を経て大分県立芸術文化大学で教員をしている千賀喜史と申します。

この経歴は、一見何のつながりもないような気もしますが、実は最近つながっていることに気が付きました。
自分は仕事に向き合うにあたり2つ大切にしていることがあります。1つは、少しでも興味があれば手を伸ばす、もう1つは仕事の先にお金以外の何かを感じているか、この2つです。あと、仕事を含めた人の人生は、かなり高度にカスタマイズされており、普遍の法則というのがどうやら存在しないようなのです。ですので、皆様は使えると思ったことはどんどん試してみて、ご自身の好みにあわせてくださいね。おっと、カスタマイズのやり方も人それぞれですので参考にならない可能性があります(笑)。
私の場合は、大学の教員を目標にして実際その職に就くのに12年かかりました。12年?長かったですよ。長すぎて時々忘れてしまう程です。ただ、教員を考え始めたのは就職してからの話です。
私の新卒での就職活動は、約80社エントリーシートを提出し、内定をいただけたのは数社でした。当時の新卒求人倍率は0.6倍で、この記事を書いている時点(求人倍率1.16倍)の約半分の時代でした。私の場合はこの程度活動をしなければ納得できる内定はいただけない状況でした(そういう時代だったのもあります。ただそれだけのことです)。当時、珍しかったインターンシップも2社経験し、鳴り物入りで就職活動を始めましたが色々苦労しました。
志望業種は、大学時代にテニスをやっていたのでスポーツ用品メーカーを志望していました。しかしながら、当時は新卒採用を行っていません。戦うことなく終了しました。その後、受けた企業は大手メガバンクから始まり、メーカー、商社、リース、サービスなど受けられる企業はすべて受験していく過程で、徐々に名前の知らない企業へ移っていきました。自分自身に就職活動に対するノウハウがないからだと、分厚い就職成功本を何冊もこなしましたが、全く内定先が決まらない。
大学3年生9月から始めた就職活動は、いつしか翌年の夏になり、大阪御堂筋界隈を歩いて目ぼしい企業を見つけては直接人事部に電話していました。その活動の途中で名前は知らないけれど大企業の1つに電話をしてみました。すると「一度会ってみましょう」と返答があり、面談の運びとなりました。面談当日の日、初夏で気温も高く長袖のシャツを着ていた私は、受付に着いた時点で汗だくでした。見苦しい姿は見せまいとトイレをお借りし、制汗剤を一気に吹きかけ、涼しい顔で面談の場所へ戻ってみると40歳ぐらいの男性が座っていました。軽く会釈すると、開口一番「お前、体から煙が出てんで」と言われました。当時の制汗剤は、パウダーを吹きかけてサラサラにするタイプが主流であり、制汗剤のかけ過ぎでパウダーがシャツの隙間から漏れ出ていました。恥ずかしながらも会った瞬間、名前も言わずにお互い大爆笑でしたね。後で分かったことですが、その方は人事課長でした。
面談は進み、急遽その週に予定されていた2次面接にのせていただきました。その後、最終面接を経て内定となりました。その会社は自動車部品メーカーで、営業職として10年間お世話になりました。ご縁のあった人事課長は後に部長となり、何かをやらかしたようで、6年後に私の部署に飛ばされてきました。ご結婚された時期が遅くお金がないようで、18時に仕事を終わるよう指示され、19時まで100円の、安いビールに見立てた発泡酒屋によく連れて行ってもらいました。最後まで可愛がっていただきました。
次の転機は、32歳です。自動車部品メーカーの営業職は私の天職でしたが、その当時の自分は気づけませんでした。私は冒頭申し上げた「大学教員になれたらいいな」をキャリアの目標として色々策を練っていました。当時のキャリアプランは、ビジネス系の資格である中小企業診断士を取得して専門学校の教員になり、実務経験のある大学教員になるというものでした。しかしながら、この資格が全く取れない。働きながら土日を潰して取得できなかったのはしんどかったです。3年目のトライで不合格通知をいただいたその月、働きながら大学院に通う神戸大学MBAプログラムの存在を知りました。脱力しきっていた私は何もすることがないので試しに受験することにしました。初めて書く志望理由書や研究計画書には苦労しましたが、結果は合格でした。あれだけ望んだ診断士の合格はいただけませんでしたが、始まって以来の入試倍率であったMBAは、残酷なまでにすんなり通りました。実はこの時、10年越しのリベンジと称してスポーツ用品メーカーの中途採用に応募していました。
その翌年の春、スポーツ用品メーカーは最終面接まで進み、最終面接後のトイレで面接に同席されていたスポーツ用品メーカーの人事部長とトイレが一緒になりました。
人事部長「今日、MBAの入学式らしいね」
私「ええ、どうしてご存知なのですか」
人事部長「俺、今年卒業したねん」
私「え…!?」
実は、人事部長は同じ大学のMBA卒業生であり、私が入学する年に卒業された先輩でした。
スポーツ用品メーカーは営業職でエントリーしたにもかかわらず、CSRの推進部署に配属されました。神戸大学MBAは仕事をしながら勉学するため、基本寝ることができません。圧倒的な睡眠不足でかなりのストレスになるので、比較的時間の自由がきいて、仕事にも活用できるCSRに配属してもらえたようです。MBAと新しい会社と新しい業種は、中々歯ごたえがありました。
その後苦労しながらもMBAは卒業し、広報宣伝、事業企画と、新卒当時の夢であったスポーツを扱う会社で仕事をさせてもらいました。新卒で描いていたキャリアの願いがかなったのは10年後でした。
次の転機は39歳です。スポーツ用品メーカーでは6年お世話になりました。大変でしたが、花のある素晴らしい会社員時代でした。高橋しん著の「いいひと。」という漫画があるので試しに読んでみてください。この会社がモデルになっているそうですよ。

おっと、忘れていました。さて、「大学教員になる」というキャリアですが、MBAの先にありました。MBAのご縁があった先輩に指導教員の先生をご紹介いただき、その人柄に感銘を受け、博士課程に進学しました。この時に知りましたが、実は会社員として働きながら大学の博士を取って教員になる道が存在していたのです。まさに寝耳に水。どこにもそのような情報はありませんでした。働きながらの博士課程は、また歯ごたえが倍増し、さすがに「進んでは止まる」を繰り返しました。結果は、数カ月に1回行われる大学院ゼミ発表の40回目で取得することができました。博士取得という1つの資格に約5年かかりました。社会人大学院生としては短い方でしたが、私は我慢できません。卒業を待たずに教員公募に応募し続け、実務系の経験が買われて博士課程在学中に教員になりました。この時も色々なご縁が、受け入れ先の大学で待っていました。印象に残っていることは、大学教員になるというのはものすごく難しく奇跡を起こさないといけない。貴方は奇跡を起こした人だと言われました。と同時に、たくさん就きたくても就けなかった人もいるので、与えられた職に感謝しなければならないと。本人は気がつかないのですが。
さて、冒頭の問いかけに戻ります。まずは「天職」の意味からです。当初、私が描いていた「天職」は、自分にしかできないことであり、充実感に溢れた楽しいと思える仕事でした。しかしながら、たくさんのご縁を生きていく中で、私の「天職」に対する解釈が変わりました。壮大な目標を掲げて努力を重ねてきましたが、実は最初から「天職」についていたのです。
そもそも「天職」は、英語でいうとCalling、和訳で「呼ばれている」という意味です。誰から呼ばれているかというと、「天が」「神が」あなたを呼んでいる。では何をもって呼ばれているのか。それはあなたが必要だと求められている時、すなわち自分がやらなければならないと「使命」を感じている時だと考えるようになりました。
私は1社目の自動車部品メーカーで営業をしていた時、自分の仕事は地味で誰からも評価されていないと感じていました。ただし、汗まみれで部品を作る飾らない工場の人たちが好きだということはわかりました。今振り返ると工場の人が働きやすい環境を作るために、日夜仕事をしていました。時には手を真っ黒にすることもありましたが、営業は物を売る、そして作り手が作りやすい環境を作るという「使命」を持っていました。3年もすると工場の人から直接電話が入るようになりました。客先の技術者も、商社を飛び越えて直接連絡をしてくるようになりました。仕事は地味で楽しくありませんでしたが、充実していました。今考えれば「使命」を感じていたその時点が、すでに「天職」だったのです。
私の新卒採用の就職は、全く意図しない結果で就職が決まっています。私の中途採用の転職は、準備していたシナリオから大きく外れていました。私の教員採用は、まさかの博士課程の先にあり、博士を取得する前に決まってしまいました。私の場合は、どんなに頭を使って緻密に計画をしても、意図したタイミングで望む結果が手に入ることはありませんでした。ただし、その時の願いは多くの時間をかけて、ふとしたタイミングで表れています。
冒頭で申し上げた「つながっている経験」は様々な場面で役立っています。営業の経験は大学教員同士のコミュニケーションに、広報宣伝部の経験はまさかのオンライン講義に、事業企画の経験はマーケティングの演習で。すべての実務経験が教員としての経験につながっていました。
ここまでで色々ありましたが、私はまだ満足していません。もちろん今の使命はありますし、気がついています。しかしながら、キャリアプランは永遠に続くと信じています。
では、これからどうすればいいのか。
難しいこと考えてもどうせ考えたとおりに事は進みません。でも最近になって願いごとが叶うタイミングの感覚が短くなってきているような気がします。恐らく、次の使命が呼んでいるのか、それとも残りの人生の時間が限られてきているのか。
小学生の頃、時間を忘れるほど夢中になったのか宇宙の図鑑でした。そういえば、JAXAが今年の秋に宇宙飛行士を募集するらしいですね。当初、社会科学系(文系)は募集していなかったのに、今回は応募可能になったとか。
しかし、当初は理系で募集していたのに急に変わるのはおかしいな、何かご縁があるかもしれないぞ。体力はないけど、35歳から頑張っている空手は珍しいかもしれないな。ま、判断するのは応募先だし、応募するのはタダだし、応募してみようかな。
どうせダメだろうな、今回はダメだとしてもどのタイミングで現れるのだろう。
え、願い叶っちゃいます? 宇宙旅行だったりして。楽しみだな。
その時、私の使命は何だろう。私の使命は・・・。

Profile
立命館大学経済学部卒業、神戸大学大学院経営学研究科修了(MBA)、神戸大学大学院経営学科研究科博士後期課程修了(博士)
職歴
2003年 東洋ゴム株式会社入社、営業を10年経験。
2012年 ミズノ株式会社に転職、法務部グローバルCSR室、広報宣伝部、スポーツ施設サービス事業企画部事業企画課で活躍。
2014年 関西学院大学経済学部非常勤講師。
その後、大分県立芸術文化短期大学国際総合学科専任講師に着任。経営学や実務系科目を教えながら、企業の重要業績指標(Key Performance Indicators)の活用や選定を行なっている。
主な著書
「ESG活動におけるKPIと管理システムの効果的な組み合わせに関する研究 -先進企業の事例研究-」碩学舎ビジネス・ジャーナル(2021)
コラムのお話すっごく面白かったです。制汗剤の話で笑ってしまいました。
あと、超大手企業から教育の道に進まれたということで、本当にたくさんの経験をされていらっしゃるんですね。コラムを読むことで自分の知らない世界について少し知れたような気がします。
就活中なので、「天職」までは考えたことがありませんでしたが、自分の「使命」についてちょっと考えてみたいなって思いました。
コメントありがとうございます。ちと文章長かったかなと・・・。色々経験できて人生すごく充実しています。気がついていないだけで意外と使命は果たしているかもしれませんよ!
上段蹴りの写真に惹かれました。
女子ですが空手が好きで、マット練習では上段蹴りが一番好きでした。
また、コラムを読むと、「大学教員になれたらいいな」をキャリアの目標にしていらっしゃり、私も人生の最終目標としては、日本語教師で大学教員になりたいと考えていて、興味深い!と思いました。
「お前、体から煙が出てんで」は笑ってしまいました。恥ずかしながらも会った瞬間、名前も言わずにお互い大爆笑。ある意味、とても印象に残っただろうなと思いました。
コラムを読んで、とても身軽な方なのかなと思いました。それは素敵です
今年は就職活動をしています。
頑張ります! ありがとうございました!
スポーツ用品メーカーだったり大学教員だったり、自身のキャリア目標を苦労しながらも叶える姿に心打たれました。会社員として働きながら大学院へ行き教員を目指すという大変な道のりで、決して諦めることなく次々とこなしていくのはなかなかできることではないと思います。また人事部長たちとの偶然の出会いが、千賀さんのキャリアをサポートしているように思い、人との出会いや関わりの大切さを感じました。
大変貴重な経験を共有してくださりありがとうございます!
大学の教員になるという目標を長年持ち続けて努力をしたことが本当にすごいと思いました。自分は目標を定めたままにしておくことや一つのものに努力をすることが苦手なのですが、まずは小さな目標を設定して千賀さんのように突き進んでみます!